本質的な部分までしっかり吟味し評価することの大切さ

多くの自己啓発本の内容に「思い立ったらすぐ行動しましょう!」の様なフレーズを多々見かける。

そのようなことを本を読んで理解したところですぐに実践できるのだろうか?

殆どの人、例えば99%の人は実践できないと私は思う。

譬え実践できた人が居たとしても、三日坊主に陥るだけではないだろうか。

 

今もなお地球はインターネットという、喩えるならば宇宙人の様な存在に世界は襲われ、近年5Gという形で基地を拡大している謎の存在に私たちは右往左往しながら生きている。

余りにも情報が多すぎるのだ。

情報が多すぎると、どういうわけか本質的な部分を探ろうとする意欲が湧かない。

また、より良い思考術やスキル・技術を得る方法はあるのに、そのことを本人は分かっていないことがしばしばある。

むしろ悪い方向に進む方が大半である。

残念なことに、本質的な部分を探ろうとしない為、時間が経てば経つほど悪化し、手放すことも珍しくはない。

 

本質的な部分とは何なのか。どのようにしたらすぐに行動に移せるのだろうか。

これは多くの人が悩む扉であり、ネットの規模が拡大するに連れてこの扉を開けられない人が多いように感じる。

私もまだその中の一人に過ぎない。

 

体験談から入るが、ここ一週間で私の行動力がやや上がったと感じる。

大したことは実践していないし、恐らく社会人から見たら当たり前と思われるようなことかもしれないが、先ずは書いていく。小さな変化で構わない。

仕事をする際にはポケットにメモ帳を常備するようにし、いつでも書けるよう心掛けたり、気付いたら情熱を持って仕事に取り組めるようになった。

具体的にはもっと仕事を熟して今よりもより高い給料を頂きたいと考えるようになった。

電車の中は目を瞑ったりしていたのを本を読む時間に変えた。

 

己の人生というのを本気で変えたいと思ったら自然と読めるものである。むしろ本を持ち込まないとそれだけで朝から気分が下がる一方でしかない。

このことは受験勉強についても同じことが言えると思う。

本気で志望大学に受かりたいと思ったら、その瞬間から頭から煙が出るくらいどうしようかと考える筈である。

今回の例で言えば、電車で学習できるようスマートサイズの単語帳やファイルからプリントを取り出したりなんなりして勉強に取り組んだり、火が付いたら自然とできるものだと思う。

それを本気になっていない一般の人が唯々真似したところで意味がないだろう。

それは本質的な部分を理解して行っているわけではないから。と言ったらそれがその答えである。

本気になっている人の外部だけ見て、肝心の内部を真似していないのなら何時まで経っても何も変わらない。昨日と同じ日々を繰り返し生きているだけである。

 

果たしてそれは成果がしっかりと見込めるものなのだろうか。

 

最終的にそういう人はこういう。

「私はこんなに頑張ったのに!」

こういう人はどこにでも居る。腐るほどいる。Twitterにも沢山居る。貴方の身近な人もそうかもしれない。貴方の町を見渡しても殆どの人がそうかもしれない。

本質的な部分は「頑張って成果を出す」ではなく、「どのようにして成果を出すのか」である。

 

私は受験勉強を諦めた者なので私が言うのも説得力が無いし非常に良くないことだが、受験勉強の本質的な部分は「勉強を頑張る」ことではない。

大学側から出題される問題を一定以上の得点をもぎ取り、周りの受験者よりも高い点数を得て競うわけなのだから、ただ単に「勉強を頑張る」だけではスタートラインにも立っていないのだ。

更に己の得意科目や苦手科目といった自己分析も行う必要がある。

隅々まで己を知り、隅々まで敵を知り、隅々まで高度な戦略を立てる必要がある。

何をどう、なぜそのように頑張るのか、というWhat・How・Whyという三本の矢がしっかりしていないと難しいものである。

大概の人はWhatだけに固執し、How以降が抜けている様に思われる。

 

話が逸れそうなので戻そう。

 

先程にも述べたように、What・How・Whyの3つがしっかりしていないと本質的な部分を俯瞰的に見ることが非常に難しい。

逆に、たったこの3つがしっかりしていればさえ、本質的な部分が見えるわけである。例外はあるかもしれないが。

 

ところで、私は5月の中旬頃から姉から紹介で造園のアルバイトを始めた。

最初の頃は親方の為に働こうと考えていたが、次第に仕事が嫌になり、「なぜ自分は働いているんだろう」「お金を貰わなくても良いから早くやめたい。帰りたい」ということを考えながら働くようになった。

これじゃいかんと思い立ってその時の心境を身近な人に相談したが、失礼な内容なので勿論しこたま叱られたりした。

元々受験勉強を諦めて専門学校に行こうと考えていたが、叱られた日にネットで「専門学校 やめたい」で検索し、血眼になっていた。

とにかく必死だった。

「専門学校に行って就職する」をいつしか「仕事を辞めたいから学校に行って仕事をやたい」と思うようになっていた自分がいたからだ。

知らない間に自分自身が人間の屑の道に歩んでいたことに気付かされ、認めたくない事実を認めざるを得なかったのだ。

因みになぜそのような検索をしたのかというと、当時の私は「仕事が辛いからやめたい」人に陥っていて、それを「専門学校に行けば仕事をしなくて済む」ということだけに捉われていたから、逆に「専門学校が辛いからやめたい」人の視点に立つことにしただけに過ぎない。

 

そこからはというものの、本質的な部分に焦点を当てることができたと思う。

こんな糞みたいな屑人間で引き籠りニートの弟に姉が心配して親方に仕事を紹介して頂けて、親方はすぐクビにできる仕事の一つもろくにできない私に対して心優しく仕事を提供して下さった。

職場の人はこんな屑人間の私の理解者になろうとして下さったり、人生のアドバイスも沢山頂いた。

 

周りの人は私のことが心配で心配で寄り添っていたのに、私はそれに気付かないで己だけの世界に浸っていたのだ。本当に屑である。最低な人間でしかない。

 

よく、「私は周りの人から支えられて今まで生きてきました!ありがとうございます!」という人がいるが、これと全く同じである。

誰から、どんな感じに支えられてきたのか、ということをただ分析しただけに過ぎない。

親が働いているからニートの私は今自由に生きているし、姉がいて、親方がいて、本人が知らないだけで周りの人は結構心配していたりする、という事実を私は知らなかった。本当に申し訳ないと今は心底思っている。

 

気付いたらダラダラ書いてしまっているのでここら辺で締めようと思う。

ある精神障碍者の思考日記として書いたため、どこかしら支離滅裂な部分はあると思うが、どうか温かい目で見守ってください。